辰巳八幡神社 (たつみはちまんじんじゃ)

辰巳八幡神社 本殿

主祭神 応神天皇(おうじんてんのう)

例祭日 10月第2日曜日
鎮座地 東本町1丁目42

≪お社の説明・御由緒≫

国道43号線の左門殿橋手前、川沿いを南へ下って、松島ポンプ場の西隣りに鎮座する。この地は尼崎市の東方にあって、市内大物町に次ぐ由緒ある古き土地であった。
享保年間の社記によると、大分県・宇佐八幡宮より勧請と伝えられる。豊後国宇佐より、山城国男山へ八幡神神幸(石清水八幡鎮座は、貞観2年6月15日)の時、海路尼崎の浦に着き、この辰巳の濱に八幡社1社を観請したという。

なお、応永26年(14世紀)、当社地内において日蓮宗本興寺(開祖日隆上人)が開基された、と寺の古文書は伝えている。
また境内社に金子稲荷社がある。旧氏子町は辰巳町と称え、東大道町・西大道町・北浜町・東渚町・西渚町・南浜町・末広町の7町で構成されていた。 辰巳八幡神社の社地は、明治22年に創立され本格的大紡績工場の先駆であった尼崎紡績の工場予定地の一角に重なったため、その年に遷座した。昭和20年、大東亜戦争の戦火に罹り社殿が焼失したが、昭和32年に復興された。戦後、第2阪神国道(現国道43号線)沿いに鎮座していた当社は、昭和40年、尼崎市東部下水処理場用地として使用されるため、第2阪神国道より南側に遷座した。現在でも氏子地の真ん中を国道43号線が横切る形となっており、道路より北側に住まいする住民が神社の存在すら知らないこともあるという。
また境内には、源義経が大物から四国に渡るとき、静御前と別れたという「静なごりの橋」碑がある。そしてもう一つ、「辰巳渡仇討址」碑があります。伊予の藤堂氏の家臣高畑某の妻が、この渡し場で亡き夫の仇に会い、忠僕に助けられ討ちましたが、その場で自刃したと伝えられる。

宮司さんのおはなし
『尼崎志』によると、かつては宮司が常駐し、様々な神事が行われていた記録が残っていますが、現在は貴布禰神社の氏子としての活動の方が盛んです。氏子地を国道43号線が横切っており、南北の行き来も大変不便ですが、地域の方々が一生懸命、ご奉仕くださり、神社が護持・運営なされています。

辰巳八幡神社辰巳八幡 狛犬末社 金子稲荷社

辰巳八幡神社 おまつり

辰巳太鼓

辰巳八幡神社 大祭(10月第2日曜日午前11時より)
金子稲荷 大祭(5月第2日曜日午前11時より )
貴布禰神社大祭御旅所祭(8月1日午前11時より)
大祭及び金子稲荷大祭は祭典のみ。貴布禰神社大祭御旅所祭はかつて貴布禰神社の大祭において陸渡御・川渡御が行われていた際、御旅所祭が行われていた名残で現在も続けられている。
なお、その貴布禰神社大祭において辰巳町からは「辰己太鼓」が出される。かつては渡御の先頭を行き、「祓え太鼓」として行列道筋の祓いを担当した。現在では1日に行われるだんじりパレードの先頭を行き、最初に宮入を行うと、境内にて「暴れ太鼓」となり、前後左右に倒される。迫力のある演技を行う。

宮司さんのおはなし
辰巳町といいますと、触れずにおれないのが、「辰己太鼓」です。神輿やだんじりと違い、大きな太鼓とそれを支える柱、そして担ぎ上げる棒だけでできているシンプルなものですが、「祓え」の役割を担う重要なものでした。そして宮入復活後は、境内での「暴れ太鼓」が圧巻です。太鼓が前後左右に倒れ込む様子に悲鳴があがるほど迫力があり、演技を終えた瞬間に自然と多くの参拝客から拍手が起こります。ぜひ一度、8月1日の午後7時30分頃、貴布禰神社までお越し下さい。

交通案内

サンプル画像

鎮座地:東本町1丁目42

問合せ電話番号 06-6411-0170(西本町 貴布禰神社

徒歩:阪神大物駅より南東へ600m 国道42号線の左門殿橋の手前を南へ川沿いに下る。

市バス:路線番号52番 バス停「東本町」下車 東へ200m
駐車場:なし


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>>> 尼崎市交通局 市バス路線図(外部リンク)

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